かつて「ジャズ喫茶」という日本独自の文化がありました。文字どおり、ジャズのレコードを高音質のオーディオで聴くことができる喫茶店です。1960年代から70年代にかけて大きなブームになりました。
当時のジャズファンは20代の若者が中心でしたが、大卒初任給が1万5000円だった時代に、輸入盤のLPレコードは3000円です。ジャズのレコードは若者が簡単に買えるものではありませんでした。
しかし、ジャズ喫茶はコーヒー1杯で、レコードを何時間でも聴くことができます。流行らないはずがありません。やがて夜になればお酒を提供するジャズバー、ミュージシャンがライブを披露するライブバーへと業態を変化させながら、ジャズ喫茶は文化になっていくのです。
その中心地となったのが、吉祥寺、国分寺、そして高円寺でした。
3つの街は「三寺(さんでら)文化」と呼ばれ、ジャズ、ロック、フォークの聖地として、音楽好きの若者が集う街になります。
こうした文化的・社会的背景のなか、1975年に高円寺北口の中通り商店街に誕生したのが「AFTER HOURS」でした。のちに多くの常連客やミュージシャンたちが集い、長く愛されることになる場所です。

AFTER HOURSをつくった元オーナーの夕起さんが振り返ります。
「AFTER HOURSは、私と元夫の2人でつくった店でした。店舗デザインや内装などは私が担当し、“AFTER HOURS”という店名は、彼が女性ジャズヴォーカリスト御三家のひとり、サラ・ヴォーンが1955年に発表したアルバムの表題曲に感銘を受けて名づけました」
一般的に、AFTER HOURSという言葉には「営業時間外」といった意味合いがありますが、じつはもうひとつ、隠れた意味があります。
それは「ライブが終わった後のホッとひと息の時間」。
仕事終わりのミュージシャンがリラックスできる場所に集まり、その日の演奏の疲れを癒やすように、気のおけない仲間と思いのままに行うジャム・セッションの時間。それを”AFTER HOURS”というそうです。
ちなみに、夕起さんの元夫にとってAFTER HOURSは2軒目のお店で、3年前にもやはり高円寺の中通り商店街に「Hot House」というジャズ喫茶をオープンしていました。この店名も、モダンジャズの父といわれるチャーリー・パーカーの曲に由来しているのです。
その後、夫婦は別々の道を歩むことを決め、夕起さんはたったひとりでAFTER HOURSを切り盛りすることになります。
もっとも、店名に込められた思いを具体的な形にするかのように、店は連日大盛況でした。カウンターは常に満席になり、営業時間中はいつも5~6人の立ち飲み客がいるような人気店になっていくのです。

■
そして、オープンから10年が過ぎたころ、夕起さんはひとつの決断を下します。それは店をライブができる空間へと改装することでした。
当時のAFTER HOURSにライブを聴きにきたお客さんにとって、印象深かったことのひとつは、鍵盤蓋に「AFTER HOURS」の文字が刻まれた、あの小さなアップライトピアノだったのではないでしょうか。
アップライトピアノの横幅は通常、150cm前後あり、鍵盤数は88鍵です。しかし、AFTER HOURSのピアノの鍵盤数は標準より少なく、その横幅は120cm余りしかありませんでした。
その理由は、AFTER HOURSが当時流行していた“クロスオーバー”と呼ばれるフュージョンを流すジャズバーとして始まり、店内でミュージシャンが演奏することを想定していなかったからでした。通常のアップライトピアノではライブスペースに収まらなかったのです。
夕起さんが当時の苦労を思い出しながら説明します。
「あそこに置けるアップライトピアノを東京中歩き回って探したんだけど、全然見つからなくて…。でも、あるとき、新宿の楽器店で“ピアノづくりが趣味”という店長さんに出会ったんですね。その人にお願いして、特注品としてつくってもらったのが、あのピアノだったんです」
問題はサイズだけではありませんでした。当時のAFTER HOURSの階段は非常に狭く、窓も小さかったので、せっかく特注したピアノを階段からも窓からも搬入することができなかったのです。最終的にはピアノを分解して搬入し、店内で組み立てたそうです。

しかし、このピアノの存在によって、AFTER HOURSはジャズミュージシャンたちにより愛される場所ともなっていくのです。
さらに、全焼した建物が再建されると決まったとき、ライブハウスに絶対に欠かすことのできない新しいピアノを贈ってくれたのが、ジャズピアニストの荒武裕一朗さんでした。荒武さんは「久仁江ちゃんがアフターを再建しようと一生懸命がんばっていたから、何か力になりたいと思って、ピアノを僕からのプレゼントにしました」と話します。
その象徴が、ジャズピアニストの故・本田竹広さんです。
本田竹広さんは、1978年ごろからAFTER HOURSに飲みにきてくれていた古い常連客のひとりであり、AFTER HOURSは、本田さんが初めてのソロライブを披露した記念すべきライブハウスでした。
その本田竹広さんが「変な音のときもあるけど、一番好きだ」と気に入ってくれていたのが、あの鍵盤数が少ないピアノだったのです。
本田竹広さんを心の師と呼び、本田さんが奏でるピアノをAFTER HOURSに聴きにきてくれていたジャズピアニストの荒武裕一朗さんは、のちにAFTER HOURSに定期的に出演するようになりました。
荒武裕一朗さんは、2000年に当時のセンチュリーハイアットの上層階で大々的に開催されたAFTER HOURSの25周年パーティーにもバンドで出演し、本田竹広さんも、阿佐ヶ谷の新日本会館で開催された2005年の30周年パーティーで演奏しています。
そして、この2005年には、大きな災害などが起きたときにみんなが集まりやすいようにと、当時流行り始めていた立ち飲みスタイルの「AFTER HOURS 2005」を1階にオープンさせました。
実際に2011年3月の東日本大震災では、不安にかられた人たち、帰宅難民になった人たちが「AFTER HOURS 2005」に集まりました。
AFTER HOURSは、1975年のオープン時に店名に込めた思いをそのままに、誰もがホッとひと息つける心地よい居場所となったのです。



■
しかし、2020年代に入ると、みんなに愛される場所となったAFTER HOURSに、大きな危機が立て続けに襲いかかります。
ひとつはコロナ禍。もうひとつは、夕起さんが「アフターの50年間の歴史のなかでも、もっとも印象深く、けっして忘れることができない出来事」と振り返る、2020年12月に発生した店舗の火災です。
荒武さんの紹介で2009年から2階にジャズヴォーカリストとして出演し、1階でアルバイトしていた経験もある「AFTER HOURS 」の現オーナーの久仁江さんは、火災発生当時のことをこう話します。
「夜明け前の午前5時ごろ、“アフターが燃えてる!”ってLINEが来たの。すぐに走って駆けつけたら、建物全体が火の海で、アフターがめっちゃ燃えていたんです。シャッターの隙間からも炎が上がって…」
まもなく駆けつけた夕起さんは、久仁江さん、そして2階の運営を夕起さんから任されていた松田圭介さんらとともに、まさに呆然と、AFTER HOURSが燃え落ちていくさまを見守ったそうです。
しかし、それから数日後、ヘルメットを装着し、屋根が焼け落ちて煤だらけになった建物に恐る恐る足を踏み入れた夕起さんと久仁江さんは、奇跡を目撃します。建物が全焼する大きな火災にもかかわらず、あの特注のピアノは、原型をとどめたまま無事に残っていたのです。
このとき夕起さんが決意したのは、AFTER HOURSの再建でした。
久仁江さんが振り返ります。
「12月の火事から年をまたいで正月の2日に、夕起さんから電話がかかってきたんです。“あなた、もちろん2階やるわよね!”って…。じつは、圭さんがコロナ以降は立ち上がる気力を失っていたので、経営を含めて私が2階を引き継ぎたいって、以前から夕起さんに相談していたんです」
ただし、夕起さんから2階を譲渡されるにしても、火災前と後ではまったく話が異なります。火災後のお店の再建は、これから建て替えられるビルで店舗をいちから自分の手でつくる必要がありました。資金、労力、心と体にのしかかるプレッシャー、何もかもが違います。
夕起さんは、久仁江さんへの電話の意図をこう話します。
「“早く店を再建しなくちゃ!”って思う反面、私は1階だけで精いっぱいで、もう2階に新しい店をつくることはできない。彼女は1階のバイト時代は遅刻常習犯だったので心配でしたけど、すでに高円寺で『SUB ROSA』というダイニングバーを経営していました。2階に関しては、彼女がやりたいって言ってたので、じゃあ任せてみようと。とにかく私は“AFTER HOURS ”という名前を残してほしかったんです」
久仁江さんは、覚悟を決めて「やります!」と夕起さんに返事したときに、自分の膝がガクガクと震えていたことに気がついたそうです。
■
2022年7月に営業を再開した1階の「AFTER HOURS 2005」、同年10月に営業を再開した2階の「AFTER HOURS」には、古くから店に通ってくれる常連客、ミュージシャン、そして全国の音楽ファンと、多くの人たちによる「応援したい」という思いが詰まっています。
たとえば、なかなか建物の建て替えが進まなかったときには、常連客や高円寺の人々だけでなく、全国各地で多くの音楽ファンが署名活動を展開し、最終的には1600人もの署名を集めてくれました。
また、店舗設計やデザインの知識がまったくない久仁江さんが相談を持ちかけ、アドバイスしてくれたのが大手建設会社に勤務し、ライブをみるために「AFTER HOURS 」を何度も訪れていたお客さんでした。このお客さんのもと、同僚のデザイナーが久仁江さんのアイデアを具現化し、施工では別の担当者が職人たちに指示を出してくれたのです。しかも、何の見返りも求めず…。
こうした応援により完成した新生「AFTER HOURS」を訪れた人は、ホワイトとウッドを基調とした明るくモダンなインテリアに驚いたはずです。とくに、木材の表面に「ノコギリ跡」を意図的に残す加工を施したフローリングのノコ目残し材などは、久仁江さんとデザイナーが「安っぽくしたくない」とこだわり抜いたポイントでした。
しかし、店の外観や内装が変化しても、昔のAFTER HOURSと変わらないものがあります。それは夕起さんや久仁江さんの存在、ここでの演奏を居心地がいいと感じてくれるミュージシャンたち、そして、AFTER HOURSという居場所を求めているたくさんの人たちです。
新生AFTER HOURS では、2階へと続く階段を上ってドアを開けると、鍵盤蓋に「AFTER HOURS」の文字が刻まれた、あの鍵盤数が少ないピアノがお客さんを出迎えてくれます。ピアノが置かれる場所が変わっても、ここはやっぱりAFTER HOURSなのです。
曽我部 健
アニバーサリーイベントにて、お客様代表挨拶でご紹介した前野さんからのお手紙もこちらに掲載いたします。
アフターアワーズ50周年おめでとうございます。
アフターは、ユキさんのご主人からはじまりユキさん、ユキさんの娘日乃夫婦、松田圭介、そして甲斐くにえと50年間受けつがれて来ました。
歴代のスタッフも、解雇されたクニエさん以外はバイトを超えてアフター愛に溢れた素晴らしい人ばかりでした。
その首のクニエさんが、アフター再開の貢献者に成るとは思ってもいませんでした。
クニエさんの欠点であり利点は、失敗した時の反省が数秒しか持たず忘れてしまう事です。
例えば、遅刻しても彼女は「ごめんなさい」と言って反省しても、また遅刻をします。
この性格がチャレンジして失敗しても、くよくよせずに再チャレンジ出来る原点だと思います。
そして何よりも、彼女は愛情豊かで好奇心が旺盛です。ジャズバーは更に変化して行くでしょう。
立ち飲みには偏屈の野中さんや浦木さん、ソムリエのあっちゃん、声のデカい大ちゃん、情に厚くて喧嘩早い松田圭介と役者の太郎、仲裁上手の今村さんと名前を上げれば限がありません。
アフターは多くの人の出会いと思いが時の流れの中で、少しずつ紡ぎながら不思議な空間を作り上げて来たと思います。
初めて訪れた人も、客同士が普通に会話出来る。名前も知らないのに良きにつけ悪しきにつけ誰かと関わり合いになるのが、アフター空間です。
そしてアフターの核にユキさんがいます。ユキさんはジャズバーと立ち飲み屋をやりながら、速読の本を何冊か出版して速読教室もやっていました。とても多才でパワフルです。そして今でも可愛い色気と迫力があります。
ユキさんは大和幼稚園卒業で、僕も同じ大和幼稚園卒業です。多くの人に愛されているユキさんを見ていると、スタート地点が一緒なのに生き方でこんなに差ができるものかと思います。
ユキさんとクニエさんは好奇心がいっぱいです。この先も良きスタッフに支えられながらアフターを成長させ、アフターに集う人を幸せにさせてくれるとじています。
50周年おめでとうございます。
前野
